ぶるぶる文庫

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人はどうして鬼になる

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私の親戚に、お面を集めるのが趣味の叔父がいます。ずいぶん昔、その叔父の家の一室に鬼の能面が飾ってあったのですが、幼い私は鬼に睨まれるのが怖くて部屋に一歩も入ることができませんでした。初めて地獄絵図を見たのもまだ小さい頃だったと思います。人を残酷に殺す鬼達が頭から離れず、何度も夢に出てきたものです。日本昔話は大好きなアニメだったのですが、ごくたまに、人間を釜茹でにするような怖い鬼が出てくると、直視できずに顔を背けていました。いつの時代も、子どもにとって鬼は怖い存在です。いえ、子どもだけではありません。鬼嫁、鬼教官、鬼ババア……。大人にとっても鬼は怖い怖い存在なのです。

 

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昔から日本人は鬼と寄り添って暮らしてきました。子どもは鬼ごっこで遊び、鬼の絵を見て怖がり、鬼が出てくる昔話を聞き、節分になると豆を撒いて鬼を追い払う。数ある妖怪の中でも、鬼ほど私たちの生活に溶け込んでいるものはいません。

 「オニ」の語源は「オン(隠)」であると言われています。その名の示す通り、姿の見えないもの、この世ならざるものという意味を持っています。普通、鬼といえば頭に牛のような角が生えていて、虎の腰布を巻いた姿を思い浮かべますが、それは不吉な方角である東北の鬼門、すなわち丑寅(うしとら)から来ており、後の時代になってついたイメージです。もともとオニは、あるときは化物や怨霊だったり、あるときは祖霊・地霊だったり、またあるときは神だったりと、時代や場所により様々な姿を持っていました。そういった「オニ」が、死者の魂を表す中国の「鬼(キ)」と重なり、日本固有の「鬼」になったのです。

 

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 鬼は一般的には、人に危害を加え、ときには人を食べてしまう存在とも考えられており、悪いもの・恐ろしいものの代名詞として扱われることが多いです。しかし全国的に見ると、村を守るなど善行を行って民から慕われたり、崇められ、神として祀られている鬼も少なくなくありません。鬼が悪者であるというイメージは、昔話やお伽噺の中で定着していったものなのです。

 「鬼」は人を形容する言葉としてもよく使われます。残酷さであったり、無慈悲さ・非情さであったり、厳しさ・恐ろしさであったりと様々ですが、大抵の場合、自分の想像力を超えた心の持ち主に対して使います。私達にとって理解できない人間は、時として鬼になるのです。第二次世界大戦中、日本人はアメリカやイギリスを「鬼畜米英」と呼び、中国人は日本人を「日本鬼子」と呼びました。相手を人ではなく、鬼と見て憎む。いつの時代も繰り返されてきたことではありますが、理解からは最もかけ離れた行為です。

 

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では、その理解できないはずの鬼を理解するとどうなるのでしょうか。

ご存知、昔話の「桃太郎」には鬼が出てきますが、実は、鬼ヶ島の鬼は温羅(うら)という人物がモデルになっています。彼は百済で起きた戦を逃れ、吉備に渡ってきた渡来人の長でした。温羅は吉備の人々のため、たたら(製鉄)や造船、製塩などの技術を伝授し、人々に慕われ吉備国の王になったそうです。一方では英雄として伝えられる温羅ですが、別の伝承では、吉備一帯を支配する暴君だったともされています。吉備の民を救うべく、桃太郎のモデルである吉備津彦命が派遣され、激闘の末に退治されてしまうのです。どちらの伝承が事実に近いのか分かりませんが、岡山では今でも温羅と吉備津彦命が、共に大切に祀られています。この話を知った日から、私にとって鬼ヶ島の鬼は「鬼」ではなくなったのです。

昔からよく疑問に思っていました。鬼と呼ばれる人々。彼らはなぜ人の心を捨てたのだろうか。いいえ、人は人の心を捨てて鬼になるのではありません。他人の心を理解することをやめた時、私達はその誰かを鬼にしてしまうのです。