ぶるぶる文庫

学んで纏めて知ったかぶって

雨大国日本と、そこに棲むのんきな妖怪の仲間たち

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 日本は雨の国です。これほど雨に恵まれている国もそうありません。住んでいる私達にはなかなか意識できないかもしれませんが、実は日本は世界平均の約二倍の降水量を持つ雨大国なのです。世界各地の山の画像を調べると、ヨーロッパは険しい岩山、中国では水墨画のような禿山、アメリカや他の乾燥地帯では茶色い岩山が出てきて、私達が普段見慣れている緑に覆われた山が決して当たり前ではないことが分かるかと思います。日本の豊かな雨が緑を育て、標高の高い山にまで樹木を覆い茂らせ、この珍しい景色を作っているのです。

 

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 恵みと災いをもたらす雨は、古来より崇拝され、同時に畏怖されてきました。旧約聖書『創世記』には、「ノアの方舟」の伝説が出てきます。人々の堕落を見た神が四十日四十夜雨を降らせて大洪水を起こした有名なお話ですが、実は大洪水の伝説が伝えられているのは「ノアの方舟」だけではありません。インド神話ヒンドゥー教のプラーナのマツヤギリシャ神話のデウカリオーン、「ギルガメシュ叙事詩」のウトナピシュティムなど、大洪水は世界中の文化の大部分に共通して見られる伝説なのです。伝説の中で洪水は文明を壊滅させ、また新たに創造します。雨の持つ災いと恵みという二面性は、神話の昔より人々の信仰の対象だったのです。

 

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世界中のどの信仰でも、雨は神が活動することによりもたらされるとされています。人の力の及ばない天候は、まさに神の力の象徴だったのです。人はその力が及ばないはずの天候を、祈りでコントロールしようとしてきました。つまり雨乞です。雨乞の風習は世界中で見られ、その土地に伝わる独自の儀式によって雨を呼びます。儀式の内容は、呪文を唱える、水を撒く、人形を川に投げ入れるなど様々ですが、どれも神の注意を惹き、喜ばせ、同情を買う目的で行われてきました。当然降水量が少ない地域に行くほど儀式は重要なものとなっていきまして、極端なものでは人身供犠を行うものまでありました。もちろん日本にも様々な雨乞の風習が伝わってます。山野で火を焚くもの、神仏に芸能を奉納して懇請するもの、神社に参籠するもの、呪術を行うもの。面白いものでは水を汚すなど、わざと禁忌を犯して水神を怒らせ、雨を降らせようとしたものも。みんな神様の気を引こうと必死だったのですね。

 

日本の雨神といえば楯縫郡神名樋山の多伎都比古命(タキツヒコ)でしょうか。かの有名な大国主命オオクニヌシ)の孫に当たる神様ですが、『出雲国風土記』にしか登場せず、さほどメジャーな神様ではありません。他には、水を司る神が祈雨の神としても信仰されている場合が多く、降雨専門の神様というのがあまりいないというのが八百万の神界の現状といえます。雨を降らせる存在として忘れてはならないのが龍神です。神様が天上界から降りてくる際、往々にして龍に乗ってやってくるとされています。その際の天上界の光が稲妻であり、雷鳴は龍の鳴き声であると昔から考えられいるのです。龍が雨を降らせる話は色々な形で残っていまして、日本各地に伝わっていいる「雨を降らせて殺された龍」の伝説では、旱魃に苦しむ人々を救うため、龍が禁じられていた雨を降らせ、それ故龍王に殺されてバラバラになって地上に落とされてしまいました。龍ってなんと優しく健気な生き物なのでしょうか。

 

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 雨を呼ぶ存在では、妖怪「雨女」というのもいますね。迷惑な妖怪ですが、旱魃が続いたときに雨を降らせてくれる神聖な雨神の一種とされる事もあります。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも雨女が出てきますが、こちらは性質がちょっと違ってまして、雨にまつわる妖怪といった記述は見られません。解説文には「もろこし巫山の神女は 朝には雲となり 夕には雨となるとかや 雨女もかかる類のものなりや」と書かれてます。これは、楚の懐王が夢の中の巫山の女を愛し、女が去る際に「朝には雲となり、暮れには雨となり、朝な夕な陽台の下で会いましょう」と言い残したエピソードから引用されたものです。「朝雲暮雨」は男女の密やかな交情を示す故事成語で、石燕の雨女は江戸時代の吉原遊郭を風刺した創作画と言われています。

 

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 「雨降小僧」は中骨を抜いた和傘を頭に被り、提灯を持った姿で描かれている妖怪です。それ以外に特徴らしき特徴がない、存在意義がよく分からない妖怪です。江戸時代の黄表紙では、小間使いの役目をする妖怪として登場しています。「雨の小坊主」は主京都によく出没したと言われている妖怪です。夜道で男の子が雨に濡れているのですが、かわいそうにと思って家に連れて行こうとすると、道の途中で顔が五倍に膨れ上がり、鼻も耳もない三つ目の小僧に変わっているのです。雨の小坊主に笑いつけられると気絶してしまい、気が付いたときには全く違う場所に倒れているのだとか。「すねこすり」は雨の日に現れる子犬のような姿をした妖怪でして、歩いている人の足をこすりながら通って、邪魔をします。雨に恵まれた国だからなのかしれませんが、雨に関する妖怪はどうも平和でいたずら好きなものが多いようです。

 

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実は不吉な木だった桜

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桜の樹の下には屍体が埋まっている”

 

  明治時代の小説家・梶井基次郎の短編小説『櫻の木の下には』の一節です。桜の美しさを理解する為に忌むべきものの存在を信じずにはいられないというこの話は、あり得ないとは解りつつも、ふと納得してしまいそうになる奇妙な怪しさに満ちています。

 

 言うまでもなく桜は日本を代表する花です。長い冬を耐え、一斉に咲き誇り、瞬く間に散ってしまう。その儚い美しさは、多くの人々の心を駆り立ててきました。花を咲かせば人々はその木の周りに集い、合格やお祝いの象徴にも使われ、ここまでめでたいというイメージに溢れた花も他に無いかと思います。でもご存知でしたでしょうか。元来、桜は不吉な木とされていたのです。

 

 桜はパッと咲いてパッと散ります。今でこそ美しさの根拠のように肯定的に捉えられていますが、昔は「人の死」だったり「物事の失敗」と関連付けて捉えられ、縁起の悪いものだと考えられていました。また、桜の花びらは散った後にすぐに色褪せることから「心が変わり」を意味するとも考えられており、桜の季節の結婚や、おめでたい席での桜湯は縁起が悪いと避けられていたのです。

 

 また「桜を庭に植えると家が栄えない」とも言われ、庭に桜を植えるのは敬遠されています。理由としては、

・すぐ散るから縁起が悪い。

・すごく養分を吸うので、他の植物が育たなくなる。

・桜は枝を切ると枯れやすくなるので剪定ができない。成長すると枝葉が茂って日光を遮り、家の日当たりが悪くなる。

・桜は根が強くて大きく根を張るので、建造物を破壊することもある。

といったことが挙げられるようです。河川沿いの堤防に桜が多く見られるのは、桜の強い根が護岸に適しているからなのですね。他にも大量の毛虫が発生したり、落ち葉の掃除が大変だったりと、庭木にはあまり向いてないようです。

 

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 桜がめでたいものと考えられるようになったのは江戸中期頃から。この頃から庶民は花見を楽しむようになりました。なぜここまでイメージが変わったのか、はっきりとした理由は分かってません。その昔、桜は鎮魂や慰霊のために植えられることもあり、墓地や戦場跡地に多く咲いていたそうです。人の死と関わりが深い場所で盛大に散っていく桜は、戦乱の時代に於いてどうしても人の死の象徴するものと捉えられやすかったのではないでしょうか。平和になった世の中で、はじめて「桜咲く=めでたい」という発想が生まれたのです。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」この言葉は、日本人が忘れてしまった桜の本来の姿を掻き立てるものに思えてしょうがないのです。

 

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 一つ、桜にまつわる妖怪の話があります。久兵衛という男が安曇野の林に猟に入るのですが、美しい山桜の林に迷い込み、そこで若く美しい女と出会うのです。二人は互いに惹かれ合い、林で幸せな時間を過ごしました。しかしいつまでも留まる訳にはいきません。久兵衛は女に再会の約束をして別れを告げます。すると不思議な事に女の姿は消え、桜も散ってしまったのでした。久兵衛は里に戻りますが、どうしても女のことが忘れられません。再び山へ行き、そしてそのまま戻って来なくなったのです。心配した人々が山を探すと、久兵衛は山桜の花びらに埋もれて死体で発見されたのでした。このことから、女は桜の精と噂されたということです。

女は嫉妬で蛇になる

 

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 能面の「般若」は誰しもご存知かと思います。嫉妬や恨みに狂い、怨霊と化した女の面です。「般若」とは元々「智慧」を表す言葉で、嫉妬や恨みやましてや怨霊とは何の関係もない言葉でした。それが面の名前になったのは、「般若坊という面打ちの名前から取った」「怨霊が般若心経を聞いて改心したから」といった説があります。

 

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 同じく怨霊の面で「生成」という面があります。これは般若になる前の段階の女の面です。角も短く、般若面と比べると顔も幾分柔和(?)で比較的恐くないのですが、人間味を残している分、不気味でもあります。

 

 「生成」に対して、般若は「中成」と呼ばれています。“成っている途中” そう、般若ですらまだ完成ではないのです。ご存知でしたでしょうか、「本成」と呼ばれる面があることを。女の怨念が行きつく先の面、それが「蛇(じゃ)」です。

 

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 蛇の面は般若に似ていますが、表情は更に険しく、怨霊の度合いが増しています。耳も無くなっていまして、これは“聞く耳を持たない”という意味を表しているのだそうです。蛇の面は、鬼神系ではもっとも早くに出来た面で、般若も生成も、蛇から派生して出来たと言われています。

 

 今から千年以上昔、奥州白河に安珍という若い僧がいました。安珍は毎年、熊野権現に参詣してまして、その際に紀州牟婁郡の真砂庄司清重という男の家を宿にしてたのですが、ある年恐ろしい事が起こります。

 庄司清次には清姫という娘がいたのですが、この清姫安珍に惚れてしまうのです。高まる想いを抑えきれない清姫は、夜這いをかけて安珍に迫ります。まったくその気が無い安珍は、「参拝を済ませたら、帰りにまた立ち寄るから」と嘘をついて熊野へ出立し、参拝後は清姫を避けて帰ってしまったのでした。

 いくら待っても安珍が帰って来ないことを訝しんだ清姫は人づてに行方を探し回り、安珍が別の道を通って帰ったことを知ります。騙されたことを知り、必死に安珍を追う清姫。草履が擦り切れ、足から血が流れても構いません。道の途中でやっと追いつきますが、清姫の鬼のような形相を見て安珍が思わず言い放った言葉は「人違いです」でした。

 これに清姫はさらに激怒。怯えた安珍は今度は念仏で清姫を金縛りにし、その隙をついて逃げ出します。清姫の怒りはいよいよ天を衝き、その姿は恐ろしい毒蛇へと変わりました。安珍は這う這うの体で「道成寺」という寺に逃げ込み、鐘を降ろしてその中に隠れます。清姫はこれを見つけると鐘に巻き付いて火を吐き、安珍を焼き殺してしまうのでした。

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 平安の昔から伝わる「安珍清姫」の伝説です。この物語を基にして、「道成寺物」と呼ばれる歌舞伎や舞踊などの様々な作品が作られました。能の「道成寺」で使われるのが、蛇の面なのです。

 

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こちらは「蛇」をさらに凶暴にした「真蛇」。同じ能の演目でも流派によって使う面が異なる場合があり、道成寺に「般若」を使うこともあります。

 

 キリスト教七つの大罪のひとつ「嫉妬」を表す動物は蛇ですが、洋の東西を問わず、蛇は昔から嫉妬や恨み、執念の象徴になってきました。例えば『絵本百物語』には「手負蛇」という蛇の怪異譚が載っています。傷つけられた蛇がその恨みを忘れず、家まで追ってやってくるのです。鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』には、北条家のお姫様が、滅ぼされた比企一族の娘・讃岐局の怨霊に祟られた話が載ってます。讃岐局は角を持った大蛇になったのだとか。説教節 『刈萱』には、嫉妬が蛇の姿を取る話が登場します。加藤左衛門尉重氏という男がいまして、妻と妾を同居させていたそうです。妻と妾は仲良くしていたのですが、ある夜、妻と妾の髪が毒蛇に変じて絡まり合い、相手に食らいついて争っているのを重氏は見てしまうのでした。重氏は世の無常を感じ、出家してしまいます。

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『古今著聞集』にも「嫉妬の蛇」の話が載っています。ある僧が遊女のところへ通うのを、僧の妻が嫉妬して狂おしく思っていました。ある夜、いつもの通り僧が遊女を抱くのですが、どうも妻としてるような気になります。不思議に思い女の顔を見るのですが、そこにいるのはもちろん妻ではなく遊女です。気を取り直してもう一度しようとすると、やはり妻としている気になります。恐ろしく思い離れようとすると、五六尺もの蛇がするすると這い寄って、僧の陰部の頭に食らいついたのです。振り払おうとしても蛇はますます強く食いつき、離れようとしません。僧は刀を抜いて蛇の口を切り裂き、これをはずしました。切り裂かれた蛇は死に、僧も病み衰えていったのでした。また、本当かどうか分かりませんが、僧の妻もその晩から病んで、やがて死んだそうです。

 

 逆に男が蛇になる話はというと、これがあまり見ません。蛇が男に化けて娘に会いに来る「蛇婿入」の様な話ならあるのですが。実は、能面でも男の鬼系の面に角は無く、角を持つのは生成や般若や蛇といった女の怨霊系の面のみなのです。そういえば和風の結婚式のとき、花嫁が頭に巻く白い布を角隠しといいますが、これは女が嫉妬に狂って鬼になるのを防ぐ一種のまじないの意味もあるのだとか。どうやら昔から女は優しいものであると同時に、恐ろしいものであると考えられていたようです。

 

「鬼が出るか蛇が出るか」ということわざがあります。どんな恐ろしいことが起こるか分からないという意味を表す言葉です。昔はずっと「鬼と蛇だったら、蛇の方が怖くなくていいよね」なんて思ってましたが、とんでもない、どちらを選ぶこともできないくらい両方恐ろしいモノだったのですね。男性の皆さまにおかれましては、側にいる女性が蛇にならぬようどうか十分にお気を付けください。

 

 

※今回使用した能面の画像は、イノウエコーポレーション様のサイトの画像を許可を得て掲載させていただきました。

http://nohmask21.com/index_j.html

うぶめ 消えていった悲しい妖怪

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 血に塗れた腰巻を纏い、赤子を抱いた女が雨に打たれながら暗い夜道に立っている。女は通りがかった人に赤子を預けると、どこかへ消えてゆく。夜が明けると抱いていたのは赤子ではなく石だった。これが妖怪“うぶめ”です。

 うぶめは「産女」とも「姑獲鳥」とも書きます。「産女」は日本由来の赤子を預ける妖怪ですが、「姑獲鳥」は中国の姑獲鳥(こかくちょう)という幼児を害する鬼神が由来です。うぶめが赤子を預ける理由はよく分かりません。預からずに逃げると祟られる、預かると幸運を授かる、女が念仏を唱えると赤子がだんだん重くなり、必死に耐えると怪力を授かるなど、地方によって様々な言い伝えが残ってます。

 

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産女はお産で死んだ女の妄執の念が妖怪になったものです。あくまで妄執の念であって、決して幽霊ではありません。死んだ妊婦をそのまま埋葬すると未練が残り、産女になるという概念は古くから存在します。それゆえ、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられたりもしています。

 うぶめは決して知名度が高いとは言えない妖怪です。私も知ったのは比較的最近の話で、小さい頃に親などから話を聞いた記憶はありません。一般人10人に聞いたとして、1人知っていればいい方ではないでしょうか。しかし、調べていただけると分かるのですが、うぶめに関する情報は実に多く溢れています。全国各地にうぶめの伝承が伝わっているのです。実は、かつてうぶめは河童や天狗等と並ぶ最もポピュラーな妖怪の一つだったのだそうです。様々な言い伝えを残し、数多くの妖怪画に書かれたうぶめ。彼女達はなぜ消えていったのでしょうか。

 

 出産は命がけと言いますが、昔は本当にお産で多くの母親が命を落としていました。医学が発達してなかったのが主な原因ですが、出産時の妊婦の置かれた境遇の悲惨さも大きな理由でしょう。

 古来、日本では大量の出血を伴う出産は非常に忌み嫌われていました。江戸時代などは、出産が近づくと家の外にわざわざ産屋を建てて妊婦を隔離し、そこで出産をさせていたほどです。火を通して穢れが移るからと、ご飯の釜戸も別にするほどの念の入れよう。もちろん夫が出産に立ち合うことなどありません。産屋を建てられない家は納屋や土間や納戸で、それも無理なら馬小屋がお産の場でした。馬小屋で生まれるのはキリストや聖徳太子の専売特許ではなかったのですね。

 

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 出産の手助けをするのは大抵の場合、医者ではなく産婆です。下手な医者よりは豊富な経験を積んだ産婆の方がよほど頼りになったそうですが、産婆にも怪しい者は多くいたとか。もちろん、逆子などの難産の場合に帝王切開する技術はありません。産道が損傷しても、出血を止める手段すらなかったのです。死の危険を背負いながら、妊婦は横になることも許されず、座って出産するという壮絶な方法でお産をしていました。

 

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 妊婦の苦しみは産後も続きます。食事は制限され、産婦が食べれるは主にお粥と鰹節だけ。頭に血がのぼらないよう、産後も最低七日間は横になれず眠ることもできませんでした。これが、命がけの仕事を終えた母親が受ける仕打ちだったのです。出産を終え、数日後に妊婦が亡くなることが多かったと聞きますが、それも当然だと思います。

 

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 現代では医学が発達し、妙な偏見や因習も無くなり、出産で母親が命を落とす事例は驚くほど少なくなりました。日本の妊産婦死亡率はおよそ10万人中5人。世界でも最少レベルを誇っています。かつて、お産の現場で起こっていた不幸は、今ではほとんど見られなくなりました。そして、いつしかうぶめも姿を消していったのです。

 雨に打たれながら夜道に立ち、赤子を預かってくれる人を探す母親がいない。それはとても喜ぶべきことなのです。

 

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人はどうして鬼になる

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私の親戚に、お面を集めるのが趣味の叔父がいます。ずいぶん昔、その叔父の家の一室に鬼の能面が飾ってあったのですが、幼い私は鬼に睨まれるのが怖くて部屋に一歩も入ることができませんでした。初めて地獄絵図を見たのもまだ小さい頃だったと思います。人を残酷に殺す鬼達が頭から離れず、何度も夢に出てきたものです。日本昔話は大好きなアニメだったのですが、ごくたまに、人間を釜茹でにするような怖い鬼が出てくると、直視できずに顔を背けていました。いつの時代も、子どもにとって鬼は怖い存在です。いえ、子どもだけではありません。鬼嫁、鬼教官、鬼ババア……。大人にとっても鬼は怖い怖い存在なのです。

 

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昔から日本人は鬼と寄り添って暮らしてきました。子どもは鬼ごっこで遊び、鬼の絵を見て怖がり、鬼が出てくる昔話を聞き、節分になると豆を撒いて鬼を追い払う。数ある妖怪の中でも、鬼ほど私たちの生活に溶け込んでいるものはいません。

 「オニ」の語源は「オン(隠)」であると言われています。その名の示す通り、姿の見えないもの、この世ならざるものという意味を持っています。普通、鬼といえば頭に牛のような角が生えていて、虎の腰布を巻いた姿を思い浮かべますが、それは不吉な方角である東北の鬼門、すなわち丑寅(うしとら)から来ており、後の時代になってついたイメージです。もともとオニは、あるときは化物や怨霊だったり、あるときは祖霊・地霊だったり、またあるときは神だったりと、時代や場所により様々な姿を持っていました。そういった「オニ」が、死者の魂を表す中国の「鬼(キ)」と重なり、日本固有の「鬼」になったのです。

 

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 鬼は一般的には、人に危害を加え、ときには人を食べてしまう存在とも考えられており、悪いもの・恐ろしいものの代名詞として扱われることが多いです。しかし全国的に見ると、村を守るなど善行を行って民から慕われたり、崇められ、神として祀られている鬼も少なくなくありません。鬼が悪者であるというイメージは、昔話やお伽噺の中で定着していったものなのです。

 「鬼」は人を形容する言葉としてもよく使われます。残酷さであったり、無慈悲さ・非情さであったり、厳しさ・恐ろしさであったりと様々ですが、大抵の場合、自分の想像力を超えた心の持ち主に対して使います。私達にとって理解できない人間は、時として鬼になるのです。第二次世界大戦中、日本人はアメリカやイギリスを「鬼畜米英」と呼び、中国人は日本人を「日本鬼子」と呼びました。相手を人ではなく、鬼と見て憎む。いつの時代も繰り返されてきたことではありますが、理解からは最もかけ離れた行為です。

 

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では、その理解できないはずの鬼を理解するとどうなるのでしょうか。

ご存知、昔話の「桃太郎」には鬼が出てきますが、実は、鬼ヶ島の鬼は温羅(うら)という人物がモデルになっています。彼は百済で起きた戦を逃れ、吉備に渡ってきた渡来人の長でした。温羅は吉備の人々のため、たたら(製鉄)や造船、製塩などの技術を伝授し、人々に慕われ吉備国の王になったそうです。一方では英雄として伝えられる温羅ですが、別の伝承では、吉備一帯を支配する暴君だったともされています。吉備の民を救うべく、桃太郎のモデルである吉備津彦命が派遣され、激闘の末に退治されてしまうのです。どちらの伝承が事実に近いのか分かりませんが、岡山では今でも温羅と吉備津彦命が、共に大切に祀られています。この話を知った日から、私にとって鬼ヶ島の鬼は「鬼」ではなくなったのです。

昔からよく疑問に思っていました。鬼と呼ばれる人々。彼らはなぜ人の心を捨てたのだろうか。いいえ、人は人の心を捨てて鬼になるのではありません。他人の心を理解することをやめた時、私達はその誰かを鬼にしてしまうのです。

いろんな河童

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私の住んでいる熊本県八代市は、仁徳天皇の時代に九千匹もの河童が渡来したという伝説が残る町です。河童の伝説は全国各地に数多くあれど、これだけ豪快な伝説が残っている土地は他にありません。八代の河童は日本一であると市民は誰もが誇りに思ってます。なんだったら日本の河童は八代から広がっていったのだと豪語する人もいるくらいです。さすがにそれは言いすぎですが、町のいたるところで河童をモチーフにした絵や石像や巨大なハリボテを見ることができ、さすが河童の町だけあるなと思わせてくれます。

町にいる河童達は緑色の爬虫類か両生類のような体を持ち、頭の上には皿があり、背中には甲羅を背負っています。河童とはそういうものだと昔から思っていました。ところがある時、一枚の奇妙な河童の絵を見ました。その河童は全身が毛に覆われ、甲羅も頭の皿もなく、姿はまるで猿そのもの。自分の知っている河童とは似ても似つかないものでした。でも紛れもない河童の一種であるというのです。どういうことなのでしょう。調べてみると、この猿みたいなやつだけではない。他にもたくさん奇妙な河童がいることが分かってきました。私がそれまで河童だと思っていた妖怪は、様々な姿を持つ河童のほんの一部の形に過ぎなかったのです。

 

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例えば「ひょうすべ」という河童がいます。起源は古代中国の水神、武神である兵主神。河童の仲間でありながら河童よりも古い河童です。秦氏帰化人と共に日本へ伝わったとされ、日本では食料の神として信仰されたりもしています。好物はナスで、ひょうすべを見た者は病に侵されてしまうとか。また、ひょうすべはたいへん毛深い妖怪なのですが、こいつがこっそり入った風呂に大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったというたいへん迷惑な話も伝わっています。

 

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中国には河童とよく似た「水虎」という妖怪がいます。本当は河童ではないのですが、日本に伝えられた時に混同されて無理やり河童の仲間になりました。河童同様水辺に住み、体は河童よりも大柄かつ獰猛で人の命を奪います。河童より恐ろしい妖怪です。

 

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猿猴」という河童は全身毛むくじゃらで猿に似ています。海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るそうです。いろいろな伝承が伝わっており、女性に化けたり、女性を襲って子どもを産ませたりもしたとか。実は中国南西部に生息していたテナガザルがモデルではないかともいわれてます。

 

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河伯」は中国神話に登場する黄河の神です。人の姿をしており、白い亀や竜に乗っているとされています。元は人間の男だったそうで、若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こします。ちょっと許せない感じの神様ですね。この河伯が日本に伝わって河童になったという説があるのです。日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と読んだりします。河伯の眷属はスッポンでして、河童が甲羅を背負ってるのはスッポンをモチーフにしてるからとも言われています。

 

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石川県鹿島郡の河童は「かぶそ」と呼ばれ、川獺と関係が深いようです。小猫のような大きさで尻尾の先が太く、女に化けたり石や木の根と相撲をとらせたりします。

西日本の河童は秋になると山に登って「山童」になります。春になったら降りてきてまた河童になるという生態を持っています。

遠野の河童は赤い色をしてます。村娘が河童の子を産んだという話も伝わっています。

他にもガッパ、ガワタロ、メドチ、スイジン、ホンコウ、ガメ……日本中に数多くの河童の仲間がいます。名前が違えば姿も生態も様々で、共通項を見つけるのがむしろ難しいほど。そう、河童とは単一の妖怪ではなく、多種多様な起源をもって融合した水辺に棲む妖怪の総称というべきなのです。

 

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じゃあ私が今までずっと河童だと思っていたのは、本当は何という妖怪なのでしょう。

一般的に熊本の河童は「ガラッパ」と呼ばれています。そういえば私が子どもの頃、「ガラッパ祭り」というお祭りがあり、ガラッパ音頭なるものを歌って踊ってました。歌詞も振りも覚えてませんが、「オーレオーレデーライター」と歌っていたのだけ記憶に残ってます。「オレオレデライタ」とはかつて八代に渡来した河童たちが喋っていたとされている言葉。一説によると「呉人呉人的来多」、つまり「中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」という意味になるのだとか。三国志で有名な魏・蜀・呉の三国時代の「呉」が存在したのは西暦222年~280年。八代に河童が渡来したとされる仁徳天皇の時代というのは、西暦313年~399年。多少ずれはあるものの、誤差の範囲のようにも思えます。私が河童だと思ってきたもの、八代の町に住みつき今でもいたるところで見かける河童の姿をした妖怪は、遠い昔、はるばる呉からやってきた渡来人だったのかもしれません。

妖怪はどこから

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先日、妖怪好きの友人と「妖怪の何が好きなのか」というテーマで議論する機会がありました。友人は妖怪のビジュアルが好きなのだそう。なるほど、妖怪はいろんな種類がいて、それぞれ特徴的なデザインを持っています。妖怪とデザインというのは密接な関係があると言えるでしょう。カードにすればコレクターズアイテムにもなりますし、ビジュアルは妖怪の大きな魅力の一つです。でも自分はビジュアルにはさほど惹かれません。上手い絵師の作品ならともかく、わりと多く残されてる落書きのような絵の妖怪にはさほど魅力は感じないのです。では自分は妖怪の何に対して惹かれてるのだろう。

人は妖怪と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。河童?天狗?それとも一つ目小僧? もちろんみんな立派な妖怪です。でも“妖怪”という言葉は、実は昔はもっと違った意味で使われていました。例えば、家がガタガタと鳴りだす現象が起きたとします。人はとても怖がり、その現象を妖怪「家鳴り」と名付けました。また、山で大きな声を出すと声が返ってきます。それを不気味がった人によって、その現象は妖怪「ヤマビコ」と呼ばれるようになりました。妖怪とは元々は怪奇な“現象”全般を指す言葉だったのです。

現象に名前が付けられると、今度は形が与えられるようになりました。「家鳴り」は家を揺すっている子鬼の姿、「ヤマビコ」は犬のような姿で描かれています。絵描き達は想像力を働かせ、あるいは何かの真似をして、妖怪に形を与えていきました。何だかよく分からないぼんやりとした存在だった妖怪は、描かれることよってようやく具体的なイメージを持つことができたのです。こうして妖怪は”現象”から”存在”へと成っていきました。

存在が確立すると、次に起こったのは妖怪の“キャラクター化”です。江戸時代の黄表紙では愛らしい妖怪が登場し、庶民を楽しませるようになりました。現代の、漫画やテレビで妖怪が人々を楽しませてるのと一緒です。かつて恐怖の対象でしかなかった妖怪は、いつしか人を楽しませるようになっていったのです。

人は正体の分からないものを恐れます。その恐怖と上手く付き合う為の手段が妖怪だったのです。恐怖の対象は妖怪という装置を使う事によって、名前を得、存在を得、やがて子どもを笑わせる存在にまで成長しました。日本人はこうして恐怖と寄り添って生きてきたのです。

もちろんこれは妖怪の成り立ちのほんの一例にしか過ぎません。でも、妖怪を紐解けば昔の人が何を恐れ、何に驚き、何を大切にしてきたのかが、歴史資料を見るのとはまた別の方向から見えてくるのです。友人にも言われました。あなたが好きなのはたぶん妖怪ではなく人間の方なのだと。そうかもしれません。自分は妖怪そのものというより、妖怪を通して人が何を考えていたのかと想像するのが好きなのですね。